タイ人と仕事をする際に日本人が戸惑うことの一つが、タイ人の名前の呼び方についてです。
私が初めて仕事でタイへ行った時のこと。打ち合わせで顔を合わせた相手から、「私はフォンです。」と自己紹介されました。
私はこの「フォン」という名前が苗字か名前かがわからなかったので、打ち合わせ後にそのフォンさんの同僚の人に「フォンさんというのはファーストネームですか?ラストネームですか?」と尋ねました。すると「ファーストネームでもラストネームでもなくニックネームですよ」と教えられました。日本人の私には初対面の人をニックネームで呼ぶのは憚られたため、「彼女の本名は何ですか?」と聞きました。すると「ファーストネームはベンジャポーンです。」「ラストネームは?」「・・・・知りません」。
「一緒に働いている同僚の苗字を知らないって、そんなことある?」と私は驚きました。
日本人の常識では、一緒に働いている同僚の苗字を知らない、ということは考えられません。日本人どおしであれば、最初に覚えるのが苗字で、次にファーストネーム。ニックネームで呼び合うというのはよほど親しい間柄というのが常識です。しかしタイにおいては、生活や仕事において主にニックネームが使われていますので、あまり親しくない間柄だとニックネームしか知らない、さらに親しければ相手の本名のファーストネームは知っていますが、これが苗字になると、仕事や生活においてほとんど使われることはありません。会社の中でも同僚の苗字を知っているのは、履歴書を扱う人事や給与振り込みの手続きをする担当者だけ、ということが普通なのです。
ではなぜタイにおいてニックネームが主に使われて、苗字はめったに使われないようになったのでしょうか?これにはいくつかの理由があるようです。
1タイ人の苗字はやたらと長い
日本でも武士階級ではない庶民が苗字を持つようになったのは明治になってからですが、タイにおいてもかつては苗字を持つのは貴族階級のみでした。
1913年にすべての国民が苗字を持つように定められ、それぞれが自分で好きな苗字を作ったのですが、貴族階級の苗字が「長いほど偉い」というものであったため、その価値観を継承したこと、また他人とカブらないように複雑で長い苗字を付けたがったことにより、タイ人の苗字はやたらと長いものが多くなり、覚えにくく、お互いを呼び合うという用途には使いにくいものになってしまったようです。(文化の違い発生要因 歴史的要因)
2本名は時々変わる
私の会社のタイ法人でも、人事をやっていると「明日から名前が変わりますので登録よろしく」という申請が時々あります。そうなのです。タイでは「本名を変える」ということがあるのです。日本でも改名によって名前が変わるケースは全くゼロではありませんが、裁判所の許可が必要。タイでは役所に手数料を払って届け出ればいつでも好きな時に本名を変えられるのです。そして名前を変えた人に「なぜ名前を変えたの?」と聞くと、「お坊さんに占ってもらったら、こっちの名前の方が運気が上がると言われたから」というのが多くの場合の改名の理由です。ファーストネームだけを変えることもありますし、一家で占ってもらって家族全員で苗字を変えることもあります。(文化の違い発生要因 宗教的要因 仏教)
3「ニックネーム」の意味が日本とは違う
タイ人のニックネーム(チューレン)を「あだ名」と日本語に訳してしまうと、タイにおける本来の意味から外れてしまうように思います。チューレンは親がつけた「呼び名」です。つまり、「その人を呼ぶ時にはこの名前で呼んでね」という親からもらった名前。なので、法的には本名が正式なものなのですが、「親がこの子をこう呼ぶと決めた」という意味で、チューレンはタイ人にとって正しい自分の名前。日本人の考える「あだ名」とはまったく性格の違うものなのです。
ではなぜタイでは本名の他に「呼び名」をつけるのでしょうか?
日本でもかつて乳幼児の死亡率が高かった時代には「7歳までは神のうち」と言われ、生き延びるかどうかは神様の思し召しと考えられていました。タイでは赤ん坊を本名で呼んでしまうと悪霊に人間であることを知られ、あの世に連れていかれてしまうと信じられていたようです。ですので、タイ人のチューレンには、動物の名前(小鳥ちゃん、豚ちゃん、カエルちゃん、ネズミちゃん、海老ちゃん、蟻ちゃんなど)、自然現象(雨ちゃん。。先程のフォンさんは雨さんという意味、空ちゃんなど)、食べ物(りんごちゃん、スイカちゃん、バターちゃん、ビールちゃんなど)が多く、チューレンが人間の名前であることはありません。これは「悪霊に人間だとバレないように」という思いが込められた呼び名なのです。(文化の違い発生要因 宗教的要因 アミニズム)
このように、歴史的、宗教的な経緯から、名前の呼び方についても文化の違いが生じています。日本人の「常識」からすると、苗字にさん付けで呼ぶのが一番丁寧で、ビジネスの間柄であだ名で呼び合うのはもってのほか、と思ってしまいがちですが、タイ人の間ではニックネームで呼び合うのがビジネスにおいても自然なのです。しかし、そんなタイの事情を知らない日本人とタイ人の間では、カルチャーギャップによる軋轢が生じる可能性があります。
よくあるのが、タイ人が日本人の苗字を呼び捨てにして日本人にムッとされてしまうケース。タイ人はアメリカ人などと同じように、人を呼ぶときに敬称をつけるという習慣がありません。例えば「私はサイトウです」と自己紹介をすれば、相手が日本人との付き合いが少ない場合には、悪気なく「サイトウ」と呼び捨てにしてくることになります。ですので「日本人の名前には後に『さん』をつけるように」といった教育をすること、逆に日本人には呼び捨てにされてもタイ人には悪気はないことを教えることも、文化の壁を乗り越えてコミュニケーションを円滑にするために必要となります。
中小企業診断士 池田真一郎